聖徳太子

梅原猛著

出版社 ‏ : ‎ 集英社; 第一版 (1993/4/15)

発売日 ‏ : ‎ 1993/4/15

著者によると、聖徳太子が活躍した6世紀終わりから7世紀初めの東アジア情勢は、現在に似ているという。中国において、300年ぶりに南北中国を統一した巨大な隋帝国が出現した。隣国は、隋帝国の侵略に戦々恐々としていた。朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅が鼎立(ていりつ)し、互いに軍事および外交において、しのぎを削っていた。

著者によると、聖徳太子は煬帝を深く尊敬していたに違いないという。実際、聖徳太子が派遣した遣隋使は「海西の菩薩天子」と煬帝のことを表現している。仏教を厚く信仰し、仏教による文明国家の建設を目標とする聖徳太子としては最大の尊敬を表現したものに違いない。しかし、「日出る処の天子、書を日沈む処の天子に送る、恙(つつが)なきや」とした日本の国書は、わがままな煬帝の怒りを買い、彼は「失礼だ。二度と見せるな」と言ったという。聖徳太子の煬帝に対する尊敬は、片思いに終わったようだ。それでも、隋は日本に対し裴世清を使者として送る。これは日本の対中国史上前代未聞のことである。高句麗や百済の僧を政治顧問においた聖徳太子は、東アジアの政治情勢を読み切って、あえて失礼なラブコールを隋に送ったのであろう。見事な判断と決断力である。さて、一方の隋はどう反応したか。

遣隋使の派遣直前(西暦607年)に、隋は朱寛という将軍を琉球に派遣し島人一人を連れ帰らせている。さらには、次の年に再び琉球を慰撫(いぶ)せしめるために派遣された朱寛は、琉球国王の抵抗にあい、それが果たせなかったが、「布の甲」を持ち帰った。この年に来た日本の使者(たぶん遣隋使の小野妹子)にこれを見せたところ、「夷邪久(屋久島か)の国人の用いるもの」と言ったという。さらに、隋は陳陵と鎮周に1万を超える兵を預けて琉球を侵略し、国王を殺して万を超える民衆を虜(とりこ)にして連れ帰った。折しも、608年から609年にかけて、日本は隋の使者、裴世清を迎えていた。あめと鞭(むち)。聖徳太子の純粋でプラトニックな(たぶんに意識的だが、半分本気の)ラブコールに対し、煬帝はパワーポリテックスで切り返したことになる。

さて、ここで聖徳太子が、日本にとって非常に大事な外交ポイントを中国から上げたことは注目に値する。日本の国王が中国に対等な形で国書を送り、当時の中国皇帝がそれを正式に受け、さらに返答の使者まで送り出している。さらに、その事実が中国の正式の史書である隋書にも記載されている。中国の周辺諸外国との交わりは、常に周辺国からの朝貢の形をとり、「中国皇帝はすべての土地を治める権利を持っているが、かの地は中国から遠すぎるので、とりあえず代わって治めることを命じる」という形を例外なくとっていた。周辺諸国の国王は、これを国内の統治の権威づけに使った。魏に使いを送って金印を授かった卑弥呼もその典型である。これは、現代の中華人民共和国が、その周辺国がどこも中国の一部と今言い張る根拠になっている。日本については、明らかな例外がここにある。

以後、日本は中国を手本とした律令国家の建設に邁進(まいしん)し、仏教を中心とした大陸文明を熱心に輸入し、「和をもって貴しとなす」官僚国家、日本が誕生する。聖徳太子のこの見事な外交戦は、その端緒を開く大変重要な出来事だった。

一方、中国においては、隋が滅亡し、代わって唐が起(た)った。その唐が隋の煬帝に諱(いみな)した煬とは、「内を好みて礼を遠ざける」「礼を去りて衆を遠ざける」「天に逆らって民を虐げる」皇帝につけられる名前だそうである。

今、中国が再び超大国として東アジアに覇を唱えようとしている。現代中国の政治指導者たちの言動が、次世代のそれから「煬」と諱されるような事態が起こらないことを、中国と東アジア諸国の人民のために祈りたい。歴史は繰り返すかのように見えるが、まったく同じとはかぎらない。われわれは歴史から学ぶことができる。中国は隋帝国の顰(ひそみ)に倣ってはならないし、日本は白村江の敗戦の轍を踏んではならない。未来を選択するのは、われわれである。

サンケイビジネスアイ、高論卓説7月29日、許可を得て転載。