2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 韓国併合への道(完全版) 呉善花著 韓国の李朝末期から、日本による韓国併合とその統治、そして戦後の韓国における反日政策について淡々と描かれている。李朝末期、西欧による植民地化が迫る中、韓国では貴族階級である両班たちは民衆の困窮を顧みず、派閥の闘争に明け暮れて国政改革が進まない。宗主国である清国の軍隊は、民衆・市民を略奪して憚らない。日本の支援を当てにした金玉均のクーデターは失敗し、韓国内からの改革の可能性はなくなった。親日勢力が後退するなか、親露派のクーデターが起き、国王がロシア公館に居住するなど、李氏朝鮮はロシアの保護国になり下がっ…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月26日 戎崎 俊一 その他 日本の首相はなぜ靖国神社に参拝しないといけないか? 今年もまた夏を迎えて、首相の靖国神社参拝が国際的な話題になりそうだ。私は研究者で定常的に外国人と議論している。その中で閣僚の靖国神社参拝が外国人にまったく誤解されている可能性を感じたので、警鐘を鳴らしたい。普通、神社に参拝すことを辞書に従ってworshipと訳する。これが誤解のもとだと思う。戦前の軍国主義者、戦争責任者たちも祭られている神社に手を合わせる行為は、彼らを崇拝し同様の行為を取ろうとする意志の表れと外国人には理解される。しかし、そうでは全くないと私は思う。むしろ、明治以降の戦争に関係した行…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 野火 大岡正平著 これは、学生時代から読まねばならないと思っていた本の一つだった。テーマの重さから、読む気力が湧かず、今日まで延ばし延ばしにしていた。中原中也を読んだ勢いで、読んでみた。主人公の田村はフィリピンに派兵された。そして、愚劣な作戦の失敗で敗北しつつあり、全体として強盗集団に成り下がった日本陸軍の中にいた。無理な行軍で肺病が進んで喀血し、食糧略奪行に耐えない彼は、本隊を追い出されたが、食糧を持たない患者を病院は受け入れない。行く場所のない彼は、同様の境遇の見捨てられた日本兵の集団に入る。病院は米軍の砲撃を受…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 聖徳太子3 梅原猛著 著者は、聖徳太子が煬帝を深く尊敬していたに違いないという。実際、聖徳太子が派遣した遣隋使は「海西の菩薩天子」と煬帝のことを表現している。仏教を厚く信仰し、仏教による文明国家の建設を目標とする聖徳太子としては最大の尊敬を表現したものに違いない。しかし、「日出でる処の天子、書を日沈む処の天子に送る、恙なきや」とした日本の国書は、わがままな煬帝の怒りを買い、彼は「失礼だ。二度と見せるな」と言ったという。聖徳太子の煬帝に対する尊敬は、片思いに終わったようだ。それでも、隋は日本に対し裴世清を使者として送る。こ…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 聖徳太子2 梅原猛著 西暦590年、約400年ぶりに中国を統一した隋から、高句麗を詰問して恐喝・恫喝する国書が送られる。隋による侵略が必至とみた高句麗王は、背後の新羅を牽制するために日本に接近する。日本は、これを機会に当時最新流行の宗教・知識体系である仏教の導入を計る。高句麗および百済の援助で日本で法興寺が建設が始まる(推古元年、西暦593年)。この年の夏、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が皇太子となり、さらに摂政となって日本の政治を総攬されるようになる。彼の家庭教師は、高句麗および百済から派遣された僧侶、慧慈と慧聡だった。聖…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 聖徳太子1 梅原猛著 聖徳太子が活躍した六、七世紀の東アジアは風雲急を告げていた。著者曰く「数世紀ぶりに、中国において、南北を統一した巨大な隋帝国が出現して、隣国は、この隋帝国の侵略に戦々恐々としていたところであり、朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅が鼎立し、互いに軍事および外交において、しのぎを削っているという状況にあった。変動の時代を迎えて、東アジア世界は、大いなる緊張につつまれていた。」また曰く「太子は、ただ日本の仏教の問題のみでなく、日本の政治や外交についても、実に重要な問題を投げかけてた。そして、そのような問題は…
2015年1月6日 / 最終更新日時 : 2023年4月7日 戎崎 俊一 書評 秘境西域八年の潜航上中下 西川一三著 昭和18年日中戦争時に、工作員として厳重な鎖国政策を取るチベットにラマ僧侶として潜入。あらゆる困難を超えて目的のラサへの潜入に成功する。日本敗戦のうわさを聞き、確認のために、ヒマラヤを超えインドへ。日本敗戦を確認の後、志してラマ教の修行とチベット語の勉強のために、ラサのレボン寺に入門し厳しい修行の日々を送る。その後、中国西康省探検の後、再びインドへ。今度はラマ僧として仏陀の旧跡を辿る巡礼の旅を続ける。この巡礼の旅は、玄奘の「大唐西域記」をなぞる様相を呈する。各地の風土特に、ラマ僧と人々の暮らしの記録…