日本の首相はなぜ靖国神社に参拝しないといけないか?

今年もまた夏を迎えて、首相の靖国神社参拝が国際的な話題になりそうだ。私は研究者で定常的に外国人と議論している。その中で閣僚の靖国神社参拝が外国人にまったく誤解されている可能性を感じたので、警鐘を鳴らしたい。

普通、神社に参拝すことを辞書に従ってworshipと訳する。これが誤解のもとだと思う。戦前の軍国主義者、戦争責任者たちも祭られている神社に手を合わせる行為は、彼らを崇拝し同様の行為を取ろうとする意志の表れと外国人には理解される。しかし、そうでは全くないと私は思う。むしろ、明治以降の戦争に関係した行為で異常な死を迎えた人々(戦争責任者として米軍に処刑された戦犯も含む)を悼み、その魂を慰めることにあると思う。この行為は、外国人、特にキリスト教圏の人には理解が困難なので、丁寧に説明する必要がある。

日本人は古代から異常な死に方をした人は、現世に恨みを残している考え、死後に異常な力を持ち、祟るとされてきた。天災や流行病、飢饉、戦争などは彼らの祟りのせいだとされ、それを防ぐために神社が作られた。つまり、これらは異常な死に方をした死者の魂を慰め、出てきて暴れないようにする容器である。年に一度のお祭は、彼らの魂が神輿にいれて持ち出され、激しく荒ぶって、そのエネルギーを解放するためのしかけである。

もし、A級戦犯たちが今の日本に祟るとするならば、それは日本における軍国主義の復活であろうと私は思う。「それはいやだ、そうならないようにしたい。どうか、ここにこのまま静かに眠っていてくれ」という願いこそ、政治家をして靖国神社に向かわせ、手を合わせさせる理由だと私は思うし、それを支持する(海外の批判をむきになって否定したくなる)日本人の心だと私は思う。これは「まつりごと」を生業とする政治家のとくに政権を担当している首相の大事な仕事の一つと、日本人は無意識に感じているのでないだろうか?

まだまだ、論理に穴がありそうだが、海外からの批判にただ感情的に反発するだけでなく、このような日本人の精神世界と心の働きを諄々と説明する努力が必要と思う。生半可の説明では、戦争責任を免れるための言い逃れと解釈されよう。日本人は、第二次世界大戦前のような列強(ヨーロッパ諸国、米国、日本)によるアジア・アフリカ諸国の植民地支配には、断固反対する立場をとることも明確にしなければならないと思う。

皆さんのご意見を賜りたい。