地震前後の海底地形変化と津波 軟弱な堆積地層の地滑りを警戒
大正関東大地震(1923年)では、伊豆半島東岸から房総半島西岸までの相模湾沿岸各地において、地震発生直後に津波が襲来し大きな被害をもたらした。一方、この地震前後の海底地形の変化が、23年9月1日の地震直後から翌24年1月にかけて調査された。その結果が、水路部(旧日本海軍)によってまとめられている。震災調査報告では次のように記述されている。
「相模灘で起こった地変のうち最も顕著だったのは海底の陥没である。湾内より大島付近各所でそれが認められるが、最も大きかったのは真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る延長約30マイル、最大幅約16マイルの広大な海域で、平均72~80メートル、場所によっては180メートル余りの陥没があった。この区域の北端は真鶴岬南東沖4マイルに達し、東端は房総半島洲崎の西方沖合約4マイルに近づき、西南部は大島に接近してその南端は波浮の東方沖8マイル余りの地点に至る」
この変動は「信じがたいほど大きい」とされ、物理学者の寺田寅彦が注意し、その検討を行っている。その報告に、付記として、相模湾の水深の大きな変化は、海底斜面堆積物の滑り落ちや乱泥流による谷の洗浄作用によるものではないかという地質学者の小川琢治(湯川秀樹の実父)の説に言及している。
私は、最新の海底地形図と照合した結果、水深の変化と海底地形と明らかな対応が見られることを見いだした。水深変化の中で最も著しいのは「真鶴岬の沖合から相模灘の中央を南東の方向へ向かって大島の東方に至る陥没」である。
これがほぼぴたりと相模舟状海盆(相模トラフ)と一致している。この海盆は相模トラフの西北端に位置している。その東南は次第に海底谷を形成し、三浦半島沖で東京湾海底谷、房総半島沖で房総海底谷と合流し、さらに伊豆小笠原海溝の海溝三重点(坂東深海盆)に向かって下っている。
従って、この「陥没」が、相模湾舟状海盆に長年堆積していた軟弱な海底堆積地層が、地震の衝撃で乱泥流(海底地滑り)を形成し一気に海溝三重点に向かって流下した結果と考えられる。つまり、先述の小川の指摘は、詳細な海底地形に照らして十分根拠を持っている。駿河湾口に敷設してあった海底電線が切断されたこと、ほぼ同じ海域で深海魚の死体が多数発見されたことも海底地滑りの発生を示唆している。
この幅約25キロ、流下長さ約50キロ、厚さ約100メートルの海底地滑りの結果、相模湾内で津波が発生したと考えられる。熱海への津波襲来までの時間が、地震後5~6分と比較的短いこと、津波がまず引き潮から始まったことなども、相模湾内から伊豆小笠原海溝への地滑りが原因であることを示唆している。
このとき、東京湾内でも多少の海底地形の変化が記録されている。羽田沖から横浜沖にかけての数メートルの水深増加が最も顕著な変化のようである。東京湾海底谷は横浜沖において次第に傾斜と水深を大きくして浦賀水道を抜け、蛇行しながら相模舟状海盆に合流している。横浜沖における水深増加は、東京湾海底谷においても小規模ながら海底地滑りが起こっていた可能性を示唆している。実際、地震直後に館山沖の海中電線が切断されている。また、東京湾内部で1メートル程度の津波を観測している。
同様に三浦半島付近を震源とする元禄関東地震(1703年)では、東京湾内で数メートルの津波を記録している。これは、東京湾海底谷におけるより大規模な地滑りのせいかもしれない。
多くの産業インフラと居住地が東京湾の海岸に集中して分布する現在、もし元禄地震並みの津波が東京湾内沿岸に襲来したら、その被害の大きさは想像もつかない。今後想定される東京直下型地震における、東京湾海底谷での海底地滑り発生可能性を十分精査する必要がある。
フジサンケイビジネスアイ 高論卓説 2017年2月17日 許可を得て転載