日本への水田稲作の伝搬: 環東シナ海文化圏仮説

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図13:東アジアにおける農耕領域の拡大。A)ヒプシサーマル期(7000-5000BP)。粟と黍を中心とした畑作が韓半島に広がるB)ヒプシサーマル後の温暖期(5000-4200BP)。水田稲作が長江下流域から海岸にそって山東半島まで北上した。水田耕作が不可能な乾燥地帯でも畑作の輪作体系に稲が取り入れられた。C)4200-4000BPごろの寒冷期。寒冷化と乾燥化のため、東アジア北部(遼東、遼西、内モンゴル地域)では牧畜が不可能になり遊牧民が南下し、玉突き式に農耕民族が南下した。水田稲作の北限はは長江流域まで南下したが、長江上流(西)、華南・台湾(南)、そして日本の九州と韓半島南部(東)に広がった。D)3000BPごろの農耕の分布

日本人は、温暖湿潤な日本列島に居住し、代々水田で稲を作って暮らしてきた。その影響は、日本人の生活と文化に深く根差している。水田稲作自身は約10000年前ごろ、中国の長江流域で始まった。従来,水田稲作の伝搬経路に関しては、長江流域で始まった水田稲作が北上して山東半島まで到達し、その後遼東半島,韓半島を経由して日本に到達したという仮説(宮川2017;以後宮川説と呼ぶ)が有力とされてきた。しかし、1) 弥生時代の開始時期が500年早まった、2) 4.2kyrイベントによる寒冷化で水田稲作の北限が南下した、3) 紀元前10世紀ごろに韓半島南部における水田稲作の証拠がない、の三点で成り立たなくなった。

戎崎(2022)は、宮川仮説の問題点を克服した環東シナ海文化圏仮説を提案した(図)。彼は、東アジアにおける農耕領域の拡大は以下の4段階で進んだと考えた。
A)ヒプシサーマル期 (7000-5000BP)。粟と黍を中心とした畑作が韓半島に広がった。
B)ヒプシサーマル後の温暖期 (5000-4200BP)。水田稲作が長江下流域から海岸にそって山東半島まで北上した。水田耕作が不可能な乾燥地帯でも畑作の輪作体系に稲が取り入れられた。
C)4200-4000BPごろの寒冷期。寒冷化と乾燥化のため、東アジア北部(遼東、遼西、内モンゴル地域)では牧畜が不可能になり、遊牧民が南下し、玉突き式に農耕民族が南下して長江流域に流れ込み、越(倭)人の民族となった。
D)3200-3000BPごろに再び寒冷期となった。北方民族の南下により越(倭)人系の民族が長江上流(西)、華南・台湾(南)、そして日本の九州と韓半島南部(東)に広がった。

BC10世紀ごろに越(倭)人系民族により環東シナ海文化圏が成立したとすると、当時圧倒的な先進地域であった長江下流域からの九州、そして韓半島南部への文化伝搬が水田稲作とともに進んだと考えられる。この環東シナ海文化圏は、支石墓、石包丁の分布、古人骨の人類学的特徴、そして東アジアの在来種稲のゲノム解析の結果と整合的である。

Robbeets et al. (2021)は,古人骨の遺伝子解析、考古学、そして言語学の知識を組み合わせて、東アジアにおける民族と文化の伝搬を議論した。彼らは、東北アジア(中国東北部、韓半島、日本列島)の言語、考古資料、そして遺伝子の分布は、中国東北部の農民が遼西・遼東地方を通過して韓半島を南下し九州に到達したと考えると説明できるとしている。この動きは,本稿で提案した農耕の第一および第二段階,そして紀元前5世紀以降に本格化する中国東北部からの青銅器・鉄器文明を持った民族の韓半島と日本列島への移民と文化流入の流れを表していると考えられる。

しかし,約1200年続く弥生時代を一緒くたにして青銅器時代とし、紀元前1世紀ごろの人骨のみを使って弥生時代を代表させたために、紀元前10世紀ごろに起こった中国長江下流域からの水田稲作の伝搬という重要なイベントを見逃すことになった。

現状の弥生時代は長すぎる。環東シナ海文化圏の影響が顕著で金属の生産への使用が本格化していない前半と、中国東北部から韓半島を経由して流れ込む金属器文明が顕著となる後半に分けて議論するべきである。実際そのような提案が複数なされている(例えば,藤尾2021)。

1) 戎崎俊一 (2022), TEN, 4, 101-119
2) 藤尾慎一郎, 2021, 日本の先史時代, 中央公論社, 46-47
3) 宮川一夫, 2018, 弥生時代開始期の実年代再論, 考古学雑誌, 1-27
4) Robbeets, M. et al. 2021, Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages, Nature, 10, 1-6