七世紀初頭の気候寒冷化と隋の崩壊

7世紀の隋の滅亡の時期について気候変動との関係を見てみよう。隋の煬帝は、611年-614年にかけて高句麗遠征を行う。年輪による平均温度の復元結果をみると、このころ気候は急速に寒冷化していた(図1)。煬帝による過酷な徴発とこの寒冷な気候のせいで中国東北地方が、ひどい飢饉となったのだろう。天災に人災が重なった悲惨な例である。

西暦611年「ーー耕し稼うるに時を失ひ、田畑は多く荒れる。これに加えるに飢饉し、穀の価はなはだ貴し。東北の辺りもっとも甚だしくーー」資治通鑑

隋軍を悩ませたという冬将軍は例年よりずっと厳しいものだったのかもしれない。この後、西暦618年に農民の反乱が起き、煬帝が殺されて隋が滅亡する(図1)。

日本においては、622年に聖徳太子が、626年に聖徳太子とペアを組んで政治を主導した蘇我馬子が病没する。日本書紀の記述では、その記事に続き天変の記録が続く

「六月に雪ふれり」
「三月より七月に至るまでに、霖雨ふる。天下、大きに飢える。翁は草の根を喰らひて、道の垂に死ぬ。幼は乳を含み手、母子ともに死ぬ。」
「夏五月に、蠅有りて集まる。其の凝り累るること十丈ばかりなり。虚に浮かびて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷の如し。すなわち東のかた、上野国に至りて自らに散せぬ。」

最後の記述は、イナゴの大群であろうかもしくはウンカのことか。いずれにしろ、うすら寒い、梅雨が終わらない夏に害虫が追い打ちをかけるという日本の飢饉の年に見られる典型的なパターンが見て取れる。