母の故郷訪問
母を韓国の群山に連れて行きました。私の母の明美は、群山で生まれました。小学校6年の時に終戦を迎え、家族とともに着の身着のままで追われるように帰国し、そのまま70年近くが経ってしまいました。この年に祖母は病死したので、年若の4人兄弟姉妹を母親代わりに育て上げ、さらに結婚後は私と妹を育てるという人生を送ったのでした。その中で、群山時代は比較的平穏で懐かしい思い出がある半面、それが突然奪われ、その後悲しい経験をしたので、群山に対しては愛憎半ばする複雑な思いがあったようです。
群山鉄工所跡地
母の家族は、曾祖父の金谷萬六が設立した「群山鉄工所」を経営していました。この鉄工所は、当時の住所で「栄町65-3」にありました。「群山駅を出て左まっすぐのところに家があった。近くに川があり、その向こうに市場があった。」というのが母の記憶でした。まず、市役所にでかけ旧住所が現在の住所の何処に対応するのかを調べてもらいました。Yuさんという市役所の職員に対応していただきました。確認が済み、彼の車でその場所に連れて言っていただきました。廃線の後がありました。また、川があった場所は埋め立てられて今は道路になっていました。群山鉄工所の跡地は、現在は市場の一部になっており、魚の干物と、豚の臓物を使った腸詰のようなもの(いずれも群山の名物とされている)の店がありました。
群山小学校
帰り道の車内で、母が通っていた群山小学校の校歌を母が突然歌い始めました。「小学校の門前は坂になっていた。冬は凍りつくので滑って大変だった。」ということも思い出しました。群山小学校ならばすぐそばだということで、連れて行っていただきました。写真にあるように、ちょっと急な坂がありました。確かに小学生にとっては、登るのは大変だったかもしれません。校舎は建て替えられており、母の記憶を刺激するものは、残念ながらありませんでした。ただし、門柱はかつての面影があるらしいです(写真:群山小学校の門前の坂; 門柱)。
群山鉄工所
次の日に、今の群山鉄工所に行ってきました。かなり離れたところにありました。約10年前に今のところに移ってきたそうです。今の経営者は李ジョンカョャンさんです。彼のお父さんが、終戦当時の群山鉄工所の従業員であり、母の家族の帰国後、鉄工所の経営にあたってこられたが6年前に亡くなったそうです。さらに、お母さんも3年前に亡くなってしまったとのことです。二人とも鉄工所の日本人経営者家族を懐かしく思い出していたとのことです。もう少し早く来てくれれば、父か母が昔の話ができたのに大変残念だと言っておられました。
母が子供ながらに見ていた感想では、経営者である日本人と従業員である韓国人は、仲良く協力して鉄工所の運営にあたっていたということでした。今回、それが裏付けられたと思います。通訳として同行してくれた金允智(理研大森研研究員)さんも、その後の反日感情を考えると、よほど強い絆がないとこういうことは言わないだろうと言っていました。
私の曾祖父の金谷萬六は、立志伝中の人物であったと聞いています。山口の故郷からすべての資産を処分して群山に行き、七転び八起きの苦労の末、群山鉄工所を設立したようです。詳しいことは分かりません。その間、綺麗事では済まないことはあったとは思います。しかし、民族の壁を越えて韓国の従業員との信頼関係を確立し、戦後も継続して韓国の方々の生活のよすがとなった群山鉄工所を作り上げた曾祖父を私は誇りに思います。