小川琢治(湯川秀樹の実父)が指摘した津波発生原因としての海底地滑り

地質学者の小川琢治は、ノーベル賞物理学者、湯川秀樹の実父である。彼は1870年、紀伊国田辺藩の儒学者、浅井篤の次男として生まれた。16歳で上京し、第一高等学校に入学。20歳のときに濃尾地震に遭遇した後、熊野旅行に行き、湯ノ峰温泉、瀞(どろ)八丁、潮岬を旅行する。この地震と旅行がきっかけで地質学に興味を持ったといわれている。
2年後には帝国大学理科大学地質学科に入学している。97年に東京帝国大学を卒業して地質調査所に入所したが、1908年には退官して京都帝国大学文科大学教授地理学講座担当となり、21年には同大学理学部地質鉱物学科の初代主任教授となった。
そして23年に大正関東地震が起こった。地震の直後から水路部が相模湾の水深の調査を行い、場所により100メートルを超える大規模な水深変化が起こったことが報告された。陸上の地形変化は1、2メートルにとどまっているのに対し、海底ではその100倍近い変化がなぜ起こったのかが議論の的になった。
小川は24年に雑誌「地球」に「相模湾のいわゆる隆起と陥没の意義如何(いかん)」と題した論文を発表した。その中でこの大きな水深変化を「地震に伴って海底崩落および洗浄の作用が海底地盤の直後の振動と海水の津波を起こす震盪(しんとう)とで大規模に起こったものとすべきだと思ふ」と述べている。また、「数百平方粁(キロメートル)の海底地盤が平均半米(メートル)だけ高まったとしてもすこぶる大きな体積の変化で、同じく海水の動揺を起こす原因として起こってくる」と、相模湾内の津波の原因として海底地滑りを示唆している。
さらに、地層の中に過去の海底地滑りの跡が残っていることを指摘。小川のこの議論は、海底地滑りを津波の真の原因と指摘した点で、世界的にみても嚆矢(こうし)となるものである。独創的かつ正鵠(せいこく)を射た鋭い議論だ。
一方、東京帝国大学の物理学者、寺田寅彦も同年に「大正12年9月1日の地震に就いて」という論文を雑誌「地学」に発表した。この中で寺田は、相模湾の水深変化の原因を議論している。気象学者、ウェゲナーの大陸移動説などの諸説を取り上げて議論しているが、結局はこれほど大きな水深変化が海底でのみなぜ発生したかについては要領を得ない議論となっている。
論文の付記において、小川の説も紹介している。「種々有益な啓示を受けた」としながらも、「浅い処が深くなり、深い処が埋もれたといふ明白な結果になって居ないのである」などと歯切れの悪い論評に終わっている。この後、海底地滑りの発生と津波の原因に関する議論は途絶えてしまい今日に至っている。
一方、小川が先駆的に唱えた地滑りの跡の地層は「ブーマ・シーケンス」という特徴的な層理構造を持つ砂岩泥岩互層の成因論として定着している。海底地滑りでできたはずの砂岩泥岩互層は、日本の太平洋側海岸に普遍的にみられるが、それを現代日本で起こる津波と関連付けて考える研究者が小川の後、最近になるまで現れなかったのは大変残念なことだ。
小川の三男、秀樹は物理学を志した。湯川家に養子に行き、湯川姓を使うようになる。彼は、当時の素粒子論の流行を追わずに中間子論を独創し、日本で初のノーベル賞を受賞した。湯川の独創に実父の小川の背中を見る思いがする。

フジサンケイビジネスアイ 2017.10.27 許可を得て転載