Noah’s Flood: The New Scientific Discoveries About The Event That Changed History

Noah’s Flood: The New Scientific Discoveries About The Event That Changed History
William Ryan, Walter Pitman
Simon & Schuster; Touchstone版 (2000/1/25)
 ノアの箱船の伝説は、約7800年前に黒海領域に現実に起こった海水流入による大洪水を元にしているとの仮説検証を記述している。まず、彼らが展開した仮説の概略を述べよう。
  最終氷期が約12,000年前に最大を迎え、その後地球は急速に温暖化した。北欧、シベリア北部を広く覆っていた氷床が溶け始めた。シベリア氷床の雪解け水の大部分は、内陸に向かい現在の黒海、カスピ海、アラル海の領域に流れ込み、巨大な湖を形成した。当時、海面は現在に比べると130メートル低く、これらは内陸の湖として独立の水圏を維持していた。12,500年前になると寒の戻りのヤンガードリアス期に入り、中央アジアは乾燥化してこれらの湖の湖面は下がり、縮小した。11,400年前になると再び温暖化が始まった。このときは、氷床の縮小により雪解け水が内陸ではなく、バルト海、北海方面に流れるようになり、「黒海湖」の水面はあまり上昇せず、海面のみが上昇するようになった。約8,200年前ごろには、もう一度弱い寒の戻りがあり、中東が乾燥したため、農民が暖かくて水がある黒海湖周辺に住むようになった。彼らは「黒海湖」周辺の川沿いの谷やデルタを耕し、一部では灌漑を行っていた。彼らは黒海をボートで行き来し、交易したので語彙や技術、そして概念を緩く共有し、先進的な農耕文化圏を形成していた。
 ところが、7800年前に温暖化が再開し、海面がさらに上昇してとうとうボスポラス海峡の最高地点を越え、地中海の海水黒海に突入した。このとき、「黒海湖」の湖面は、海面の180メートル下にあり、滝のように流れる海水により湖面は一日に約2m上昇し、湖岸は1kmも後退した。この大洪水により黒海周辺に住んでいた住民たちは周辺への避難を余儀なくされた。
 黒海大洪水による民族大移動は以下のように起こったと考えられる。西岸に住んでいた住民はドナウ川を伝って西行してブルガリア方面、南西岸に住んでいた住民はボスポラス海峡を南下してアドリア海へ、北西岸の住民は、ドニエステル川に沿って北欧方面へ、北岸と北西岸の住民は、ドニエプル川とドン川に沿って南東ヨーロッパとカスピ海方面へ、最後に南岸の住民はアナトリア高原に上った後、さらに南下してエジプト、南東に向かってメソポタミア、さらにはインダス方面へ逃れた。彼らは先進的な農業技術(灌漑と土器の使用、家畜の利用)を持っており、それぞれの土地に定着した。北から西の方向に逃げたグループが後のヨーロッパを、南から東に逃げたグループが後の中東(エジプト、メソポタミア、インダスの三大文明を含む)を形作った。彼らは全体に語彙と概念を緩く共有していたので、これらをまとめてインド・ヨーロッパ語族と分類されるようになったと思われる。
 インド・ヨーロッパ語族の起源については、クルガン仮説とアナトリア説が長く並立してきたが、前者が、黒海領域から北西方向の民族移動を、後者が南東方向の民族移動を表現していると考えると、全体として辻褄が合った統一理論に発展する可能性がある。印欧語族を話す民族には共通して、洪水伝説が残っている。言語や音楽の系譜やゲノム解析の結果も上記の民族移動を支持する。
 また、民族大移動したグループの一つがずっと東進して、タリム盆地に入って定住した。当時はタリム盆地に大きな湖が残っており、黒海周辺と同様の灌漑農業が可能だった。ここで話されていたトカラ語はインド・ヨーロッパ語族に属する。
 上記仮説は説得力があるし、印欧語族の起源や農業の発達の観点でも魅力的であると私は思う。黒海大洪水は地質学的には、否定しようがない。最近の発掘やゲノム解析の結果とも整合性がある。栽培作物の多く(小麦、大麦、蕪、玉葱、大蒜など)が、中央アジア(アナトリア高原からイラン高原)原産とされている。当時はまだ現在よりも平均気温で2度程度低く、当時の黒海沿岸部の平均気温は、現在の高原地帯のものとほぼ一致する。黒海沿岸に野生で生えていた、これらの植物の原種が栽培化された。その後の温暖化で、これらの野生種の生息域は、高原地帯に移ったものと考えられる。
 さて、7800万年前というと日本では縄文初期(10,000-6,000年前)に位置づけられる。焼き畑による植物栽培と漁労が確認されているのは、約6,000年前から始まる前期縄文期である。黒海大洪水の避難者が遙か東行し、タミル高原を越えて6,000年前頃に日本に到達し、日本に農業を伝えたという可能性はあるかもしれない。ヨーロッパには、や球状アンフォラ文化(5,400-4,800年前)、縄目文土器文化(4,900-4,400年前)、鐘状ビーカー文化(4,600-3,900年前)などが存在しており、時期的に重なる日本の縄文文化(前期開始が6,000年前で後期終了が3,000年前頃)との技術的、文化的比較が待ち望まれる。