世界の見方の転換1,2,3
世界の見方の転換1,2,3
山本義隆 2014年 みすず書房
天動説から地動説へのいわゆるコペルニクス的転回がいかにして起こったのかを詳細に記述する労作である。結論から言うと、コペルニクス的転回は一日にしてなったわけではない。コペルニクスの前に、地動説を構成可能にした多くの努力があり、さらに惑星運動論を超えて、天体力学に昇華させるためにさらに数段の飛躍が必要だった。
西洋における天体の運動を理解しようとする学問的な試みは、15世紀にプトレマイオスの著作の翻訳から始まった。ハプスブルク家が設立したウィーン大学の教授となったポイルバッハは、プトレマイオスの「数学集成」をほとんど暗記するまで読みこなし、惑星の運動に関する一連の講義を行った。彼の死後1472年に、彼の弟子のレギオモンダヌスが自分の講義ノートを元にドイツ語で「惑星の新理論」と題して出版する。これは1653年までに56版を重ねイタリア語、フランス語、スペイン語、ヘブライ語にも翻訳されたほど多くの読者を持った教科書となった。これには、惑星や月・太陽の軌道についての木版の図版が付されていた。全く同一の図が付された書籍が数百の単位で発行できるようになったことは大きい。それまでの手写本では写本の度に必ず変形や過誤が加わって劣化していた。ドイツで発明された印刷術は、この意味で学問の発展に大きな貢献をしている。
プトレマイオスの惑星運動論のほぼ完全な理解が得られると、その問題点が見えてくる。ポイルバッハとレギモンダヌスの師弟は、それを指摘し始めた。また、その解決のため、より正確な惑星の位置の観測を行う努力を始めた。当時、主流であったスコラ学徒やルネサンスの人文学者は、学問を進歩するものとは考えておらず、いにしえの哲学者、具体的にはアリストテレスの主張を無批判に受け入れていた。一方、ポイルバッハとレギモンダヌスは、むしろ現実の観測との一致によってのみ理論の正しさが検証されること、理論の改良と観測の検証の繰り返しにより学問が先人の到達点を超えること、つまり「科学革命」が可能であると考えた。
レギモンダヌスは、ニュルンベルグに移動し、天体観測と出版事業に乗り出した。当時ニュルンベルグは、精密機械製作の技術が高く、高精度を要する観測装置の製作に便利だった。ここでレギモンダヌスは、自ら観測製作にあたり観測も行った。また、自分自身の「エフェメリデス(天体位置表)」、プトレマイオスの「数学集成」や「地理学」の新訳、ユークリッドの「原論」、アポロニウスの「円錐曲線論」の正確な図を付しての出版を企画していた。さらに、印刷術そのものの革新にも貢献していたと言われる。早世したレギオモンダヌスの衣鉢を継いだのは、彼の弟子であり共同研究者のヴォルターだった。彼はニュルンベルグの商人であり、商人らしい几帳面さで、正確な観測を行い記録した。このように、書籍を前に思索にふけるだけでなく、自ら手を動かす実際家が、学問の進歩の最前線に現れるようになった。
1472年レギオモンダヌスが「惑星の新理論」を出版した年に生まれたコペルニクスは、上記の書籍を読んで学者として成長し、その上に自分の新しい理論を作った。彼の主著である「回転論」は1543年に出版されている。彼が問題とした点は、プトレマイオスが複雑な惑星の運動を表現するために導入した周転円パラメータの非独立性である。各惑星のパラメータは本来独立であるべきなのに、太陽のパラメータと同じとしなければならないもの一部存在する。コペルニクスは、これは観測者が乗っている地球の運動パラメータが、各惑星の動きに見かけ上反映されているだけで、視点を不動点である太陽に移せば、地球を含めた各惑星が完全に独立なパラメータで記述できることに気づいた。これがコペルニクスの地動説である。地動説のよいところはもう一つある。太陽を中心として公転する水、金、地、火、木、土の六惑星の公転周期が明らかになり、公転周期の短い順に太陽から近い軌道をとるとされたことだ。水星と金星が太陽に近い軌道を持っているからである。これにより、現在まで続くほぼ正しい太陽系の描像が固まった。
一方、彼は、惑星の運動を円軌道の重ね合わせで表現することに固執した。神が作った天上の動きは円でなければならないという、アリストテレス以来のスコラ哲学の常識にとらわれていたのだ。この時代、各惑星が透明な地球儀のような剛体の中に埋まっていて、それが一つ軸の周りに回転しているという思い込みがあった。天体が地上に落ちてこないのかが不思議だったのだろう。この固執が彼の理論の精度を制限した。
天上は、地上とは全く違った神の法則で支配され、永劫不変であるというアリストテレス学の体系は、その後発見された天体現象で否定された。まず、1531年に現れた彗星である。これは後にハレー彗星と名付けられた。この彗星が遠隔地点でほぼ同方向に見えたことから、アリストテレスが言うような大気内の現象ではないことがわかった。さらに1577年に現れた彗星の詳細な観測が後述のチコにより行われ、それが少なくとも月よりも遠い天体現象であることがはっきりした。また、彗星の尾が常に太陽と反対方向に伸びていること、彗星の動きが、惑星のような黄道面近くの円軌道から全く違うことが明らかになった。これらにより、上記のような惑星が埋まった剛体回転球は存在しないのではないかとの見方が広まった。
次に、1572年の新星(現在はチコの超新星といわれている)が周りの恒星と全く同じ日周運動を示し、全く視差がなかったことから恒星界の現象と考えざるを得なくなった。さらに追い打ちをかけるように、1604年の新星(ケプラーの超新星)も同様だった。天上の世界の最たるものである恒星天でも星が生まれたり消えたりするという発見は、アリストテレス的世界観を根底から破壊した。
このような天界の新現象の観測を主導したのはデンマークのチコだった。彼は、デンマーク国王の援助を受けて、ヴェーン島に二つの観測塔、居住空間、図書館、実験室、観測機器製作のための工房、印刷工房や製紙工場を備えた観測基地で1572年から1597年まで20年余に渡って観測に没頭した。大型の観測装置を用い、新しい観測方法を工夫した彼の観測位置精度は裸眼のものとしては限界に近いまでに向上した。そこで得られた惑星の位置情報の膨大なデータが、次世代のケプラーの飛躍をもたらした。また、太陽が水星と金星を従えて、静止した地球を中心に公転しているとする独自の太陽系モデルを提案している。この場合、金星の軌道と火星の軌道がどうしても交錯してしまうので、剛体が回転する球殻が重なった宇宙モデルには無理があるとの結論に至っている。
このようにして、アリストテレスの呪縛から解き放されたケプラーは、チコが観測した火星の位置の解析から、惑星の軌道が円でも円と周転円・離心円の組み合わせでもなく、太陽を一つの焦点としてもつ楕円であることを導き出した。さらに、太陽を中心として面積速度一定の法則(ケプラーの法則)を発見した。これらの結果は1609年に「新天文学」として出版された。1472年のポイルバッハの「惑星の新理論」出版からケプラーの「新天文学」の出版までの137年は、アリストテレス的な体系の呪縛から脱出するのに必要な時間だったということになる。
なお、面積速度一定の法則は、太陽に最も近い地点で惑星の速度が最大になることを意味しており、惑星は何もない空間の中で太陽からの何かの影響力が惑星の運動を駆動されているという見方に力を与えることになった。この問題は、万有引力を仮定したニュートンによって最終的に解決されることになる。
以上をまとめると、コペルニクス的転回は以下の5段階を経て行われた。
1) プトレマイオス理論の受容(ポイルバッハ)
2) 上記理論への批判とそれを補うための観測(レギオモンダヌスとヴォルター)
3) 地動説の提案(コペルニクス)
4) 高精度で包括的な観測によるアリストテレス的世界観の崩壊(チコ)
5) 天体力学の構築(ケプラー)
つまり、コペルニクス的転回は、ほぼ一世代(約30年)に一回のブレークスルーが5つ重なってようやく得られたものだ。その間当事者たちの煩悶(キリスト教の分裂と争いがそれを増大した)とそれを克服するための努力は並大抵ではない。そこで得られた新しい情報の迅速で正確な伝搬と議論するコミュニティの形成を、出版事業が支援した。
著者は膨大な量の文献を読み、上記過程の一々を検証しつつ再構成している。良著だ。この本はぜひ高校物理の先生に読んでほしいと思う。三部構成の本書は、付録として主要な結論の証明が付置されている。それらは中学で習うユークリット幾何学で理解できる。コンピュータで武装した現在の高校生が、上記過程の一部でも追体験できるような教材を是非作っていただきたい。