Japan’s Secret War
Japan’s Secret War: How Japan’s Race to Build its Own Atomic Bomb Provided the Groundwork for North Korea’s Nuclear Program Third Edition: Revised and Updated
2019/12/10
Robert K. Wilcox
本書の1985年の初版が出されたときの端書きは、1946年10月3日にDavid Snell氏がAtlanta Constitutionに書いた記事”Japan Developed Atom Bomb: Russians Grabbed Scientists”から始まる。その内容は、「帝国日本が自力で原爆を完成させ、8月10日(広島原爆投下の3日後、無条件降伏の5日前)に爆発実験に成功していた。その場所は日本海に面した朝鮮半島北部の町、興南の沖であった。実験成功を確認した技師らは、関連記録と試作に要した装置を破壊した。しかし、原爆投下直後に日本に対して宣戦布告したロシアの部隊が予想以上に早く興南を占拠し、開発に関わった技師らをモスクワに拉致した」というものだ。彼らは拷問などで、ロシアの原爆開発への協力を強制された。その結果、ロシアは異例の短さで1949年に原爆を完成させたと著者は言う。朝鮮戦争が勃発するのは、その翌年の1950年である。
この記事に興味を持った著者は、1797年に日本の無線通信の傍受記録の開示情報の調査を開始した。そしてCecil W. Nist大佐がサインした記録の中に、「日本が降伏ぎりぎりまで、現在の北朝鮮の領域にある興南で、原子力の軍事応用に関する技術開発の努力を行っていた」との記述を見つけ、上記のSnell記事が何らかの真実を含んでいるととの確信を持った。興南は、野口遵が率いる日窒コンツェルンが建設した化学工場群の中心に位置しており、長津湖、虚川湖の水力発電から600,000kWの電力を得ていた。マンハッタン計画でウラン濃縮を行ったオークリッジに必要な電力が250,000kWであったことを考えると、興南を中心に日本版マンハッタン計画を遂行するのは電力の観点からは不可能ではなかった。
著者は1980年に来日し、日本の原爆開発に携わった人々にインタビューをしている。帝国陸軍のサポートで行われた二号研究の中心人物であった仁科芳雄は、1951年に死去していたので、部下だった玉木秀彦や二号研究担当の技術将校だった山本洋一らにインタビューを行っている。仁科とその協力者は多くの困難を乗り越えて、1944年の3月までにウラン鉱石からのウランの精製、六フッ化ウランガスの製造、そしてU235の分離(熱拡散法)に関する技術的な目処を立てた。また、激しくなる空襲を考慮して、大阪で量産型の装置を組み立てることにした。しかし、4月12日の空襲で設備のほとんどを失ったこと、ウラン鉱石が十分な量集まらなかったことを理由に中止されたとされている。一方で、帝国海軍のサポートで進められてきたF号研究は京都大学の荒勝文策を中心に進んでいた。金属ウランの製造に成功し、U235分離に使う遠心分離装置は完成しつつあったが、尼崎などの爆撃によって破壊されて、U235分離作業には至ってなかったとされている。
しかし、と著者は言う。関西に集まっていたこれらの装置と設計図が密かに興南に輸送され、原子爆弾製造の努力が継続されていたのではないかと。興南には、日窒コンツェルンが建設した電気化学工場が集積しており、重水素の製造が行われていた。帝国海軍との協力により試作中のジェットエンジン用の燃料の製造も行われていた。連合軍の本土攻撃の際に、ジェット機に搭載した原爆による神風攻撃で一発逆転を狙っていた。また、上に述べたように近くの水力発電所からの供給で電力は不足がない。さらに、朝鮮半島北部と満州国では低品位ではあるが、ウラン鉱石が採掘されていた。それを采配していたのも日窒コンツェルン傘下の企業であった。詳細は分からないが、必要な量を調達できた可能性は十分にあると著者は主張する。
著者の集めた情報は、米国の諜報開示資料や日本占領米軍の関係者への尋問記録を主体としており、直接証拠に欠けるが、一考の価値はあると私は思う。しかし、研究室での試作段階から、原爆製作まで4ヶ月で行ったというのは、あまりにも無理がある。実態は、U235の分離にある程度成功していたが、まだ爆弾製造には至っていなかったというところではないか。Snell氏の記事のうち「爆発実験に成功」の部分のみが法螺で残りはほぼ事実ではないかというのが私の見立てである。
興南で日本版マンハッタン計画がある程度進展していたとすると、1945年8月のロシア参戦と1950年から始まる朝鮮戦争における中国共産党の動きが理解できるような気がする。両国とも日本帝国の遺産である原爆製造技術の略奪に懸命だったのだ。ロシアは、広島原爆投下の次の日に参戦し、異例の速さで南下して興南を占拠している。興南占拠が参戦の目的だったのだ。一方、長津湖は朝鮮戦争で米中軍が死闘を演じた場所だ。中国共産党の参戦目的の一つは興南の原爆製造技術だったのだ。GHQ司令部が現場将兵の反対を押し切って長津湖への無謀な進軍を強いたのも、傲岸で無能だっただけではなく、中国共産党の野望を察知していたからかも知れない。もちろん、現在の北朝鮮の核開発も日本帝国が作った興南に根があるということになる。
この件はまだ闇が深そうだ。今後、米国諜報部の開示が進めば、その一部は明らかになるかも知れない。日本側に残された記録ももう一度精読しておく必要がありそうだ。