反証可能性とカメレオン

科学的仮説は「もし条件Pが真であるならば、観察可能なQが生じる」という条件命題の形をとっている。しかし、Qが観察されたからと言って、Pが正しいとは言えない。Qを生じる別の仮定が存在してもいいからである。しかし、Qが生じなかった場合には、Pは一義的に否定できる。カール・ポパーはこのことに目をつけて、「反証」という手続きを受け入れるかどうかが、「科学」と「非科学」を分かつ境界線であると考えた。ポパーによれば科学の歴史は「仮説の提起とその反証」という試行錯誤のプロセスであり、競合する諸理論は、反証による自然淘汰のふるいにかけられ、やがては無限遠点にある「真理」に漸近してゆく(以上、野家啓一著、科学の解釈学p166から抜粋)。

ここに示されるポパーの考え方は、科学者たちの実感にあっている。科学哲学者がいかに美しい理論を展開しようと、このポパーの手法だけが唯一、確実な前進を約束していることは科学者は皆知っている。

さて、このポパーの反証を手掛かりとする手法にも、問題がある。いわゆるカメレオンモデルである。カメレオンモデルは、多くのパラメータを包含しており、観測されたほとんどあらゆる現象に対して適合することが可能だ。一般に、観測量の数と同程度、もしくはそれよりも多いパラメーターを内在しておけば、それは不可能ではない、その中で動いている論理が本当の論理と違っている場合でも。したがって、その予言が正確である必然性はないので見分けないと判断を間違える。

コンピュータプログラムがこの問題を深刻にしている。カメレオンは古いプログラムに保護されて生き残るのだ。コンピュータプログラムが科学に使われるようになって50年がたち、3世代を経たものがある。このような古いプログラムの多くは、誰も中身が分からなくなってブラックボックス化している。書いた本人でさえ、詳細は忘れている。それでも、それを世代を超えて継承し、実態と合わなくなった部分は適当にパラメータフィッティングをして使いまわしている場合がある。多くの場合、このような古いプログラムはアドホックなわけのわからないパラメータの宝庫である。また、初期のプログラム者が設定した適用範囲を超えて使っている可能性があるので信頼性に問題がある。

では、どうやったらカメレオンをあぶり出せるのか?一般的な処方箋はないが、見分けるためのポイントはいくつかある。まず、カメレオンは後知は完全だが、予知は苦手だ。新しい観測・実験事実が出たときに馬脚を現すことが多い。ただし、その馬脚は新しいちょっとしたパラメーターの導入か変更で消えてしまう。そういうことを繰り返しているモデルは、カメレオン注意であろう。

次に、上に述べたように、古いブラックボックス化したプログラムに頼っているモデルもカメレオン注意である。こういうプログラムが生き残っている分野は、諸量が複雑に相互作用している系を対象にしている場合が多い。現実に合わせるために、非常に多くのパラメーターを導入し、見かけのパラメータ数を減らすため、それらの間にアドホックな関係を仮定している場合がある。こうなると中で何が起こっているか本当に分からなくなる。

そのようにして、古い旅館のように建て増し建て増ししてわけがわからなくなって来た時に、さすがにこれではだめだと考える個人やグループが現れて、一から直截に考え直して、科学革命が進行する。クーンの科学革命の実態はこういうところにあるかもしれない。

多くの場合、観測・測定精度が向上して、空間分解能や時間分解能が格段に進歩してしまうと、対象の形や変化がつぶさに見えてしまうことで、カメレオンがばれてしまうことが多い。あーだ、コーダ議論している前に、さっさと測ってしまう実験家の精神は、常に大事である。