「風立ちぬ」を観た。

堀越二郎の一連の戦闘機開発の物語、堀辰雄の同名小説、そしてトーマス・マンの「魔の山」の要素を3:3:1ぐらいの割合で混ぜて、宮崎監督の夢と想像力で固めてできた史上初(たぶん)の純文学アニメ作品である。

技術者・開発者として面白い挿話はいたるところにあった。サバの骨の形が美しいという二郎の感覚は正しい。流体の抵抗がすべてを決める水中にすむ魚の形と飛行機の揚力を生む翼断面の形が同じなのはたぶん理由がある。独自の工夫で無様なあひるの子を作った亀(二郎)の勇気が大事だ。その失敗の経験は次につながる。二郎は、飛行機製作についてのすべての最新知識を勉強して自分の中に統合したうえで、職工から設計者まですべての関係者を集めて夜中の勉強会を行い、知識と問題点を共有した。画期的なブレークスルーを生む正統的な方法だが、これがなかなかできない。このような開発の機微を、わかりやすい形で見せてくれたこの映画は素晴らしいと思う。

恋愛小説「風立ちぬ」の部分は当然たくさんある。病臥する菜穂子の横で持ち出しの計算を始める二郎。左手で布団の中の菜穂子の手をつなぐ。
菜穂子「仕事をしている二郎さんの顔を見ているのが好き」
二郎「片手で計算尺を扱うなら僕が世界一だ」
二郎「タバコ飲みたい。ちょっと手を離していい?」
菜穂子「だめ」
二郎「、、、」
というのはいいシーンだ(細かいところは違うかもしれない)。今度、女房相手に「風立ちぬゴッコ」してみようかな。私はタバコを吸わないが、、、。ビールに替えようか?計算尺もないな。タブレットの電卓で代用するか、、、。うーん、ちょっと雰囲気ないなあ。

魔の山の要素も所々にある。高原のホテルで親しくなるドイツ人の名は、カストロプさんだった。これは魔の山の主人公の名前である。魔の山は第一次世界大戦勃発直後の1914年にカストロプがサナトリウムから出所するところで終わるらしいから、1930年代に中年のドイツ人として彼が日本に滞在しているという設定は成立しなくはなさそうだ。また、ベランダで毛布にくるまる結核療法のシーンは、魔の山からとったものだと思う(私は前半分しか読んでいないが)。

この映画で純文学に対する興味が高まるだろう。私も、堀辰雄の小説の方を予習してしまった。純文学は深く内省を迫る。時にはいいことだ。そっちの感想文はまた別途書きたい。

本作品は、大正末期から昭和初期の風景と庶民の生活が、克明に、そしてこの上もなく美しく描かれていた。素晴らしかった。