自己組織化と進化の論理 スチュアート・カウフマン著

一世を風靡した(今もしている?)複雑系科学の第一人者による自己組織化の一般書である。彼らは、NKモデルと言われる数理モデルを使って、自己触媒化学反応ネットワークをモデル化した。それは、生命の起源、発生と細胞分化、カンブリア紀爆発進化、人間心理、社会・経済構造の発達と関係があるの主張がなされている。

生命の起源が、単なる一つの自己複製化学物質から始まるのではなくて、相互に触媒しあうたくさんの化学物質でできた自己触媒ネットワークにあるという主張は確かに卓見だと思う。N種類の分子が存在する反応系においては、その相互の重合・解離反応の数はNの自乗に比例して増加してゆく。したがって、個々の化学物質がある反応を触媒する確率が小さくても、Nが増加するにつれて、系内の物質の中で系内の反応を加速する触媒が見つかる確率は増加してゆく。そのような加速された反応の数が、化学物質の数に近づくと、臨界を超えて自己触媒ネットワークが姿を現す。これが、生命のもとだとカウフマンは言う。この臨界現象は、パーコレーション等でもなじみのものであり、それを生命の起源に適用した発想は素晴らしい。

カウフマンはこの理論を、人体などの細胞の分化の問題に適用する。人間の細胞の遺伝子数は約10万個(この本が書かれた当時の評価)ある。細胞は、その十万個のスイッチを持った遺伝子の相互調節ネットワークだと考える。このような系もカウフマンらのNKモデルで記述が可能である。そのような系はスイッチの数(遺伝子の数)の平方根ぐらいの数のアトラクターを持つことが予言される。一つ一つの細胞の状態は、アトラクターに近くづくとその周りにトラップされる。そのトラップされた状態こそが、細胞が分化した状態であり、幹細胞から特殊化した細胞への分化(発生過程)は、カオス状態からスタートして、それぞれのアトラクターにトラップされてゆく過程と理解できる。実際、人間の細胞は256種類あると言われており、10万の平方根=314と、よく一致している。ただし、ヒューマンゲノム計画が終わった今は、人間の遺伝子数は約2万個とされており、両者は少々解離している。この差はたぶん、細胞の中の遺伝子の相互調節ネットワークは、カウフマンのNKモデルより階層的で複雑だということを意味しているのだろう。一方で、4種類の遺伝子を同時に発現させると万能幹細胞になるという山中らの発見は、カウフマンらの描像とよく一致している。

心理や、経済、エコシステム、社会構造に関しては、この理論がどこまで有効かについては、議論はこれからだろう。確かに、これらの複雑なシステムの重要な性質をとらえていることも事実だ。ただし、これらが自己組織化で記述でき、時にカオスになることが分かっても、そこから引き出せるご利益は、割と多くないのだ。例えば、スティーブン・ピンカーに従って我々の脳が100個程度のモジュール(仏教でいう108つの煩悩に対応するもの?)でできた、相互調節ネットワークであると考える。カウフマンのNKモデルは、この系には100の平方根の10個ぐらいのアトラクターがあることを予言する。確かに人間の脳には、うれしい、悲しい、苦しい、さびしいなどの10個程度の心理状態があるような気がする。しかし、ある人が信頼できるかどうかについては、その人の個々のモジュールに蓄えられた経験とモジュールどうしの非線形な相互作用の詳細を知らなければならない。こういうことに関しては複雑系の理論は無力だ。とはいっても、なぜ脳は睡眠をとらないといけないのか、なぜ人が洗脳に弱いのかなどの理解に重要な指針を与えるかもしれない。