大秀才・吉田松陰の「夢」 ペリーと海外に渡っていたら日本の歴史は変わった

 明治維新の思想的柱となった吉田松陰の著作集を読んだ。松陰は、明治維新とその後の日本を語るには欠かせない思想家だ。当時、西欧諸国のアジア進出が進み、既に清は蚕食されて国の体をなしておらず、日本も遠からず同じ運命をたどる危機にあった。どうやって日本の独立を守るか。彼の思考はその一点に集中する。彼の出した処方箋は、以下の3つに集約されると思う。

 1)鎖国をやめ開国して、諸外国と対等に付き合う。

 2)海外の進んだ科学技術を学んで、殖産興業、富国強兵に努める。

 3)天皇の直下に大学を作り、教員も学生も身分によらずに集めて、上記の核とする。

 この処方箋は今から見ても基本線として正しい(今でも小国が独立を維持するためには同じことをしないといけない)。針穴を通してみるようにしか海外の情報を得られなかった彼の状況を考えると、この正しさは奇跡的であると私は思う。しかし、より具体的な策を立てるためには、この情報の少なさを打開しなければならない。そこで彼は、ペリー艦隊を頼って米国への密航を企てる。

 密航に失敗した彼は、自首して獄に下った。毛利藩預かりとなった後は、野山獄および松下村塾で教育に邁進(まいしん)する。その中から明治維新の原動力となった若者が輩出する。まことに明治政府はほぼ彼の処方箋に従って行動し、日本の独立を確保した。一方、針穴を通してみた世界の知識で作った彼の思想は、古事記・日本書紀に書かれた古代日本を理想とし、それを彼の思想の裏付けとした(そうせざるを得なかった)。この偏狭さは、明治・大正・昭和前半の日本政府の指導原理に限界を与えたと思う。

 歴史にif(もしも)は禁物だが、彼の米国密航が成功し、この大秀才が世界を自分の目で見たら何が起こっていただろうか。勉強家の彼は、1年もたたないうちに、世界の歴史とその変動原理の本質を理解し、さらに高い観点から日本を導く指導原理を構築したに違いない。既に彼の著作の中に、民主主義や自由の概念の萌芽があるように思う。天皇の下の四民平等という概念は、侍が政治と軍事を独占する封建主義より、民主主義にずっと近い。世界を見てさまざまな政治体制の得失を学んだら、彼は、天皇を中心とする立憲君主制に最終的には至ったと私は夢想する。

 日本の立憲君主制は、松陰の弟子の伊藤博文によって一応の成立をみる。残念ながら、彼はその勘所を把握できていなかったと思う。松陰の緻密な頭脳で詰め切って理解したであろう、さまざまな政治体制の利害得失を、弟子たちに教える機会があったら、日本の最初の立憲君主制はより機能するものになったのではないだろうか。松陰がこれを把握するまでに2年として、日本に帰って若者にこれを教える時間はまだあったと思う。

 ペリー提督は日本の開国に成功したかも知れないが、大きな誤りを犯したと思う。彼がもし松陰を受け入れていたら、その後の日米関係は、全く違ったものになったはずだ。一方、佐久間象山はペリー提督に頼んで留学生を送り出すことを、幕府に進言していたが、実現しなかった。もし、これが実現していたら、象山と松陰の関係からして、松陰が留学生の一員になっていた可能性が高い。その場合、松陰はあれほど討幕に突き進まなかったと私は思う。歴史にifは禁物だ、しかし…。

フジサンケイビジネスアイ「高論卓説」2015年11月3日 許可を得て転載