祟られるということ:What is the curse?

昭和初期から終戦までの20年間、日本は悪霊にでも祟られているかのように打つ手打つ手がすべて悪手になり、良手になりそうな芽はことごとく途中で諦められて不完全に終わるということが続いた。こういうときは、組織が持っている価値観というかパラダイムが現実に合わなくなっていて、努力はしているのに、その方向が全く見当違いである場合が多いと思う。何かに祟られているという状況は、組織の大部分のメンバーが、何か重要な因子を忘れている状況であると仮に解釈してみよう。

戦後日本は経済発展に邁進し大きな成功を得たが、平成に入ってからバブル崩壊に始って経済の不振が続き、地震などの大きな災害を受けて社会が曲がり角に来ている。また、経済発展を背景に中国の覇権主義は明らかで、これまでのように平和を唱え、戦争破棄と言っているだけでは国を失うかもしれない可能性がでてきた。今まで我々が持ってきた価値観がこれでいいのかを考え、次の百年を生き延びるパラダイムを真剣に問う時期に来ている。つまり祟りを恐れる状況は十分にあるということだ。

一方、米国も9.11以来、アラーの神に祟られているかのように、いろいろなことがうまく行かない。政治、経済、学問における指導力の低下は目を覆うようです。米国も何か大事なことを忘れている可能性が高いのだ。

今の中国は、なんだか昔の軍国日本を見るようで、中国こそ昔の日本の軍国主義の悪霊に祟られてるんじゃあないかと言いたくなるほどだ。

このように見てくると、日本が再び中国、韓国、米国、ロシアと直接対峙しなければならなくなった今、戦前の昭和日本の政治指導者たちが何を考えてどう行動したかを研究し理解することは、非常に重要だ。少なくとも私はそう思う。そのためには、彼らを断罪する立場にたつのではなく、同じ目線に立って、彼らの思想と行動を冷静に評価しなければならない。できれば召喚してインタビューしたい。それは無理なので、彼らがおかれた状況をできるだけ調べて、そこに自分を置き、自分なら何ができたか、できなかったかを真剣に問わなければならない。その時、インタビューの相手の口を開かせるには、気難しい老人に接するように、礼儀正しく接し、恐れ敬う態度を示す必要があるのではないかと私は思う。その最初の行為は、ゆかりの神社に行って参拝することであろうと思う。彼らを理解し、喜びと苦悩を人間として分かち合うことこそ、彼らの魂を慰めることだと思う。これが、彼らの思想と行動に従うことと、明解に違うことは言うまでもない。A級戦犯をはじめとする戦前の昭和日本の指導者たちこそ、この行為の対象になるべきことも明らかだと思う。

その上で、何が正しくて何が間違っていたかを深く考え、彼らの評価を自分なりに定め、今の日本に当て嵌めて行動することが私たちの役目だと思う。

海を隔てて、中国、韓国、米国、ロシアと外交戦、神経戦を展開している日本の首相とそのスタッフには、そのような準備と心構えを持っていただきたいと思う。それが、靖国の祭りごとをするという意味だと思う。