科学の解釈学 野家啓一著

久々に科学哲学の本を読んだ。20世紀後半における科学哲学の巨頭、クーン、クワイン、そしてウィトゲンシュタインの業績の紹介とそれをもとにした著者自身が主導する「知の共和制」の提案について紹介している。少々過激だが、以下に書評を書く。諸賢の批判を仰ぎたい。
クーンのパラダイム論はあまりにも有名だ。パラダイムは、ある集団の成員によって共通して持たれる信念、価値、テクニックなどの全体構成を示す。彼は「パラダイムの交代」を「科学革命」とよび、二つのパラダイムの間の交代は「証明」ではなくてむしろ「改宗の問題」であると主張し、新しいパラダイムと古いパラダイムの間には優劣はないとした。

彼の主張の前半、つまり科学史の展開を「連続的な単線的進歩」ではなく、「パラダイム間の断続的転換」と捉える科学史観に、多くの科学者は合意するだろう。一方で、二つのパラダイム間の転換を「改宗の問題」ととらえ、二つのパラダイムの間に優劣はないとする後半の主張は、私は納得できない。パラダイム転換の例としてよく挙げられるニュートン力学から一般相対性理論への科学革命については、後者が前者を包含する数学的な構造を取っている。両者の間の時間、空間、質量などの概念に大きな変化はみられる。筆者はそれを全く違う概念の導入だと勝手に断定している。したがって、両者の比較は不可能で優劣はつけられないというのだ。これは多くの物理学者の意見とはかなりかけ離れていると思うし、何を根拠を持つのかわからない。少なくとも私は納得できない。というのは、20世紀後半から21世紀にかけて提案された、多くの一見奇妙な理論(多くはすでに棄却されたが、まだ生き残っている理論体系がある)に比べると、その差は大したことはなく、双子とは言えないまでも、親子ほどには似ていると私は思うからだ。それが、多くの理論物理学者の実感ではないだろうか。いったい、哲学者は、そのような新しい展開を知っているのか?

次に、クワインの全体論の解説とその帰結について書かれている。そこでは、論理関係や因果関係までが疑われ、すべてが相対化されて、知のネットワークが、総体として経験と比較されつつ発展するという論理構造を持つらしい。諸量が強く相互作用する系では、因果の連関は複雑に絡み合い、ある時は循環し、分岐し、また融合している。このような系は、20世紀後半から進歩した、非線形(複雑系)科学によって何とか扱うことが可能になった。これにより、科学は階層性を持ち、因果が輻輳する複雑な系を記述する手法を曲りなりに手にしたと思う。クワインの理論は、それに刺激を受けて、もしくは刺激を与える形で発展したものかもしれない。何もかも疑い否定することで、物理学から芸術や音楽までの連続したものとしてとらえて諸学と知を統合したかに見える。しかし、その結果何が得られたのか私にはよく分からなかった。何でも統合した結果、何物でもない、何をするにも役に立たない空疎な理論体系があるだけではないのか。

クワインが最終的には科学が諸学を主導するという結論に至ったのは、当然の帰結だと思う。しかし、筆者はそれを「科学の専制」とみなし、「知の共和政」の確立を夢想する。いったいそれは何なんだろうか?「知の衆愚政治」とならないことを祈るばかりだ。

また、本書の最後の部分はウィトゲンシュタインが哲学を言語科学、認知科学の問題に帰するとした結論が書かれている。哲学の諸問題は、言語と認識にまつわる混乱によるとした一連の考察は確かに衝撃的だ。哲学の諸問題は、一枚の絵がアヒルに見えるか、ウサギに見えるかのアスペクト転換の問題に近いとしたのだから、身もふたもない。哲学は、これほどまでに落ちぶれてしまったのかと、一哲学ファンとしてはちょっと情けなくなった。

なぜ、こんなに落ちぶれてしまったのだろうか?私は、哲学者全体の怠惰さが原因だと思う。本書で議論されるのは、20世紀初頭に終わった、ニュートン力学から、相対論、量子論が生まれた科学革命がほとんどだった。その後おこった、大きな科学の進歩と変化は、中山茂の「制度化された科学」でひとくくりにされているのみだ。その間、上に書いた非線形科学のほか、ゲノム科学の大発展、手法としての数値シミュレーションの発達、インターネットによる科学の変貌などが起こっている。科学哲学的には重要な示唆に富むこのような変化に関心を持ち、取材や考察を繰り返して、新しい情報得てさらに手法を開発しなければ、進歩は止まってしまうと私は思う。かつてクーンがやったように。その努力は果たして十分だったのか?

本書の腰巻に「科学は万能なのか」との問いかけが書いてある。私は、この問いに以下のように答えたい「もちろん万能ではない。でも、科学に頼るしかないではないか、哲学がこの体たらくでは」と。哲学者のみなさん。頑張ってください。