サハロフ回想録 アンドレイ・サハロフ著

アンドレイ・サハロフ著  金光 不二夫 (翻訳), 木村 晃三 (翻訳) 中央公論社 2002年

ロシア水爆の父の回想録。まずは生い立ちから、大学、大学院での研究生活。水爆開発への参加、その成功とアカデミー会員への特進などが語られる。私としては、論文や教科書でおなじみのロシアの物理学者が、生身の人間として登場し、そのエピソードが語られているのが興味深かった。

ゼルドビッチ相似解やスニアエフ・ゼルドビッチ効果で天文学者には有名なゼルドビッチ博士は、恋多き男で多くの女性と関係を持ち、子供をなしたそうだ。著者との関係は複雑で、多くの共同研究を共にした「親友」ではあるが、著者の反体制化に応じて彼との関係も変化したという。ゼルドビッチの相似解が、水爆のモデル化の努力から生まれたこともよくわかった。

ランダウ・ポメランチューク・ミグダル(LPM)効果で有名なポメランチューク博士とミグダル博士は著者の学位論文の試問担当者だったが、ミグダル博士が当時車を買ったばかりでその運転の練習に夢中で、なかなか審査書類を書いてくれなくて困ったそうだ。ポメランチューク博士の方は学位審査の当日の朝に自宅でやっと捕まえて、審査書類を書いてもらったとか。博士候補者は何処でもどの時代でも大変である。博士の審査に哲学(マルクス・スターリン主義)の審査があり、著者がその試問に落ちて、学位授与が半年遅れたのもこの当時のソビエト連邦ならではのエピソードだろう。

水爆開発の功績で、著者はアカデミー正会員になり、三度の社会主義労働英雄受賞を受賞するなど、学者としての地位をのぼりつめてゆく。一方で、科学アカデミーにおけるルイセンコ学派との対決、核実験の禁止に関するフルシュチョフ首相との衝突などを通じて、次第に政治的な発言を強めてゆく。同時に、宇宙論への興味を深め、バリオン数生成の理論を作っている。

1965年ぐらいから著者は、次第に人権運動に力を入れるようになっていく。ソビエトロシアにおいては、反体制派は懲役や流刑などの迫害を受けた。その大きな特徴は、精神病院への監禁である。たとえば、ジョレス・メドベージェフは、精神病院に監禁された。医師の診断は潜伏性精神分裂病で、生物学と政治学という二つの異なる領域での業績は、分裂した性格の証拠とみなされ、彼の行動は社会的不適応の兆候を示したとされたという。著者によると、これはルイセンコ派を彼の著作で批判した報復であったという。複数の領域での業績が原因で精神病と診断されるとは恐ろしいことだ。私は最近、もともと専攻であるの天文学を飛び出して、地球科学や生物学の分野で論文を書き始めた。きっと私は、ソビエトロシアでは生きていけない。

精神面で異常のある犯罪者のための特別精神病院での管理は過酷だったという。既刑者が看護人になり、殴打は毎度のことだった。治療効果のない、大きな苦痛を伴う薬が、収容者を静かにさせるときや、懲罰の目的で投与される。収容期間は無期だ。これらの病院の実態は、精神病刑務所で、その収容者が正常であろうとなかろうと、通常の監獄よりはるかに恐ろしい存在であると著者は言う。また、著者はいう、「当局が政治目的で精神医学を乱用するのは、被害者の精神に対する直接の攻撃であるゆえに特に危険である。精神病の宣言は、被疑者の気力をくじき、評判を落とし、威厳を傷つける。しかも反駁することは極めて難しい」と。全く同感だ。

著者は人権委員会に参加し、本格的に政治犯の釈放を中心としたソビエトロシアの人権問題にかかわるようになってゆく。その中で有名な「ブレジネフへの手紙」が書かれた。私は大学で第二外国語をとしてロシア語を取った。阪大のロシア語の先生が、その教材として選んだのは、このサハロフの「ブレジネフへの手紙」だった。ロシア語の辞書を引き引きやっとの思いで読んだが、その文章の簡潔さと、頑健な論理は印象に残った。

その後、著者はノーベル平和賞を受賞するが、ロシア国内における変化はなく、KGBの悪質な嫌がらせとの長くつらい戦いが続く。家族を含めたいやがらせ、特に子供の大学への進学の道を閉ざされたのは、とてもいやだったろうし、孫が命の危険にさらされたこともあったようだ。ついには、全ての国家賞がはく奪され、ゴーリキへの流刑となった。KGBの迫害は、ゴルバチョフからの電話までしつこく続いた。この本をシェレメチボ空港の待ち合わせ時間に読んでいた私は、少々薄気味悪くなって、周りをそっと見た。

その戦いの遍歴をみると、サハロフは、まことにペレストロイカの父というにふさわしい人物である。科学者の良心に従って、原理原則を曲げなかった不屈の人だ。

ルーツと青春

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